第一章 生活篇 ● 2. 本当の自由とは
■質問
 私はキリスト教、わけても、クリスチャンの生き方に魅力を感じるものですが、未だ、クリスチャンではありません。求道者として、いつも考えることは、「クリスチャンになりたい。だが、現在、私の持っている自由とか、楽しみを失いたくない」ということです。自由! 神を信じることによって失う犠牲の中で、それが一番、大きいように思うのです。クリスチャンは、この点について、どのように考えているのでしょうか。聖書からの答えを伺わせて下さい。

■答え
 「自由とは何か」これは、実に幅の広い、いつの世にも人々が問題にする事柄です。例えば、私の手元にある国語辞典を調べてみると、「自由」について次のように定義されています。「おもいのまま。心のまま。他の制約を受けず、自分の単独意思で行動すること。きまま。わがまま。」なんだか、段々悪くなるようですが、大体、信仰から離れて、漠然と自由ということを考える時、今、読み上げたような内容が脳裡をかすめます。あなたが、今、問題としていらっしゃる自由、クリスチャンになったら、失うのではないかと恐れていらっしゃる自由とは、どのような自由でしょうか。ある人は「クリスチャンになったら、ダンスが出来ないんでしょう」と言われます。ある人は、クリスチャンになったら、酒や煙草がのめなくなるんじゃないか、と心配されます。実際、私はそのように言われる大勢の人に出会って来ました。ではクリスチャンには自由がないでしょうか。とんでもない! 彼らこそ本当の自由を知っている人たちなのです。クリスチャンになったら最後、自分は不自由な人間になってしまうと思われる方は、聖書がなんと言っているかをお聞き下さい。

 自由を得させるために、キリストは、わたしを解放してくださったのである。
 
だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
 <ガラテヤ人への手紙 5章1節>


 兄弟達よ、あなたがたが召されたのは、実に自由を得させるためである。
 ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
 <ガラテヤ人への手紙 5章13節>


 普通、人は、自由を問題にする時に「・・・・からの自由」ということだけを考えます。しかし「・・・・に対する自由」ということは考えないようです。もう少し、砕いてお話しましょう。人は、誰にも支配されない、誰の下にもないことが、一番の自由だと考えます。果して、そうでしょうか。いいえ、決してそうではありません。人が正しい主人を持たない場合程、悪い奴隷状態はないのです。たしかに誰の干渉もなければ、好きな事はできるし、こんな自由はないと愚かな人は考えがちです。しかし、現実には、その場合こそ、人は彼自身の欲望、あらゆる暴君中の暴君である自我の奴隷なのです。聖書はこうした状態を罪の奴隷の状態と言っています。

 本当の自由、つまり人間にとって究極的な自由は、イエス・キリストを通じてのみ与えられるのです。

 ある日、車を運転していると、危険極まりない車道を一匹の大きな犬が一目散に走って行くのです。私だけではなく、他の運転者たちも、いつ自分の方に寄って来るかも知れぬ、その無謀な犬にはらはらさせられました。その時、ふと、私はこう考えました。「あの犬は、主人の支配を離れて、自分自身の自由を精一杯楽しんでいるところなのだろうか、そうであれば、これ程、ばかな犬はいない。だが反対に彼が自分自身の主人を求めて一心不乱に走っているとすれば、これほど、利口な犬はない」と。聖アウグスチヌスは申しました。「神を愛せよ、然る後に、汝の欲するところをなせ!」

 現在も福岡で忠実な教会生活をしているK氏は、中年の自動車整備主任です。或る日、彼は牧師の私にこう申されました。「先生、私はクリスチャンになりたい気持ちは充分にあるのですが、毎晩の晩酌が止められそうもありません。これが止められたら、その時こそ、信者になりましょう。」そこで私は彼に向かって、真の自由の与え手であるキリストを信じることこそ先決問題であると強調しました。そして、彼は幼児のように主イエスをその心に受入れたのです。雨の日も、風の日も、愛用のスクーターの後ろに奥様を乗せて、彼は教会に通われました。やがて二人は揃ってバプテスマを受け、忠実な教会員となられました。ある日、K氏の口から、思いがけぬ言葉を聞きました。「やはりまずクリスチャンになることですよ。私なんか、あれ程好きだった酒を今更飲みたいと思いませんものね。」と

 讃美歌333番にはこう歌われています。

「主よ、われをば とらえたまえ、さらばわが霊は 解き放たれん。
 わがやいばを  くだきたまえ、さらばわが仇に 打ち勝つをえん。」

 今日、あなたも、この真の魂の自由をキリストにあって受けられませんか。