第一章 生活篇 ● 4. キリスト教は現実的か
■質問
 私は以前、札幌市内の他の聖書通信講座を途中まで受講しました。バプテストのジ・アンサーを聞いて感じたことですが、キリスト教というのは、あまりにも現実からかけはなれているのではないでしょうか。キリスト教はまた、理解できてもできなくても人々を信者にさせようとしているのと違いますか。
■答え
 あなたのお便りはいろいろと考えされられる点を含んでいると思います。

 ご質問の第一は、キリスト教は現実からあまりにもかけはなれていないか、というものです。これはよく耳にする問で、一般の人々が聖書を読んだり、説教を聞いたりした時に受ける印象を率直に伝えています。ところで、聖書の教えは、決して私たちの生活から遊離した抽象的なものではありません。ただぼんやりとその表面だけを見ていますと、「なんだ、こんな現実離れしたこと、自分には関係ない」と思われるかも知れません。しかし、その心理の深みを探り、自分自身の現実の生活にどのように応用すべきかを祈り求めるならば、その瞬間から、聖書の教えはあなたのうちに生きて来ます。

 岡山孤児園の創立者、石井十次先生の古びた引照付聖書には、どの頁にも傍線が引かれ、いかに先生がそれに親しんだかが伺われます。ところがその聖書のあちらこちらに黒ずんだ血で記した傍線の跡が見られ、そこに明治何年何月何日より、決行とか断行とかいう文字が読まれるのです。こうした態度をもって聖書を読み、また説教を聞くならば、あなたのキリスト教に対するご理解は大きな転換を見るはずです。「現実」という場合に、この世の「現実」ということが、まず考えられますね。しかし、同時に「霊的な現実」というものがあることを忘れてはなりません。<神は、そのひとり子を賜った程に、この世を愛して下さった。>(ヨハネによる福音書3章16節)これは、霊的な現実です。しかし、この霊的な現実は、肉の眼をもっては見ることが出来ません。信仰の眼、霊眼をもって見なければならないのです。また、この信仰の眼をもって、この世の現実を見る時に、普通の眼では見ることの出来ぬ、その現実のからくり、また、深みを見極めることが出来ます。ビリー・グラハム博士はこう言っておられます。「キリスト者は、私たちの日々の新聞紙上をにぎわしている、混乱、暴力、闘争、流血、戦争の脅威によって心を騒がせるべきではありません。私たちはこれらのものが、人間の罪と貪欲の結果であることを知っているのです。・・・毎日、私たちは聖書の預言が成就された多くの証拠を見ます。毎日、私は新聞を読むとき、『聖書は真実である』と言うのです。」

 クリスチャンが、この現実の社会の只中にあって、愛と平和追求の実践で果たしてほかの諸宗教の人々に劣っているかどうか、今後、一宗一派にかたよらない公正な社会の定評ある新聞記事にご注意下さい。

 第二のご質問は、「キリスト教は、理解できても、できなくても、人々を信者にしようとしているのではないか」ということでしたね。勿論、キリスト教は伝道の宗教です。私たちの伝道の歴史は二十年や五十年のことではありません。二千年来、私たちの先輩達は殉教の血を流しながら、キリスト教の福音を伝えてまいりました。そこには人間の側に発する行き過ぎや、失敗が多くありました。私たちは公平にそれを認めます。しかし、正しく聖書の立場に立って伝道する人々は、無理やりに人々を信者にしようなどとは決して致しません。信ずるとは、その人の主体的な神のみまえにおける決断によることであり、人に強いられて信者になったものが、果して本当に信じているかどうか疑わしい限りです。信ずるとは「愛する」ことに他なりません。キリスト教を信ずる、とはキリストを愛し、神を愛することです。「理解できても、できなくても」というお言葉は解釈の仕方にもよりますが、必ずしも相手について百パーセント理解出来なくても、「愛する」という経験は成り立つのではないでしょうか。つまり、理解を無視するというのでなく、理解を超えて愛するということなのです。お分かりいただけるでしょうか。新約聖書の使徒行伝二十六、二十七を見ると、捕われの身にありながら、パウロはアグリッパ王に死にものぐるいで福音を説きました。すると王は「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」と申します。それに対し、パウロの答えはこうでした。「説く事が少しであろうと、多くであろうと、私が神に祈るのは、ただあなただけでなく、今日、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別ですが。」

 こうした思いと祈りを、わたしたちもあなたに対して抱いています。