■質問
わたしのクラスメイトにクリスチャンの人がいるのですが、何かいつも嬉しそうです。彼女の変わらぬ微笑に出会うと、こっちまで楽しくなってしまいます。それにしてもクリスチャンの喜びの秘訣がどこにあるのかお話し下さいませんか。 |
■答え
はい、これはお答えし甲斐のあるよい質問です。もし、あなたが新約聖書をお持ちならば、ピリピ人への手紙4章4節をご覧下さい。そこで手紙の差出人であるパウロが、ピリピの教会の人達に次のように勧めているのです。<あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰返して言うが、喜びなさい。>しかも、この手紙が信仰のゆえに、パウロが捕らえられていたローマの獄中からのものであることを知る時に、感慨無量なものがあります。ではここでパウロの言っている喜びが何に根ざし、この世一般の喜びとどのように違うかを考えてみましょう。
1.内側からの喜びです。
あなたはお寺の鐘と教会の鐘の違いを改めてお考えになった事がありますか。そう、あの夕闇に消え行く諸行無常の鐘の音は、あの梵鐘を外側から強く打つことによって発するのです。だが、教会の鐘は、それとは逆に内側から打つのです。そしてその音色も生き生きと人の心の喜びを表すようですね。一言で言って、真のクリスチャンの喜びは、内側から溢れ出る喜びに他なりません。
2.環境に左右されぬ喜びです。
ずっと前に、先輩の牧師先生から伺った話ですが、ある日、その先生が一人の耳の遠いおばあさんを訪ねました。ところが、このおばあさん、口を開けば愚痴ばかりこぼしているんです。彼女は牧師を前に、大から小に至るまで、不平不満を並べたてました。さすがに忍耐強い牧師もたまりかねて外に飛び出し、こう叫びました。「おばあさん、外へ出ていらっしゃい。あの真っ青な大空を仰ぎなさい。主の恵みが溢れているようですよ!」続いて出て来たおばあさん、牧師の指差す上の方を仰ぎましたが、またもやこう言ったものです。「そうなんですよ、あの屋根瓦もすっかり古くなって落ちかかっているんです。」お互いに、こんな不愉快な気持ちは持ちたくないものですね。環境が変わるごとに一喜一憂するのは信仰のない人です。パウロはさっきのすすめの中で<いつも喜びなさい>と言っています。
3.日々新たな喜びです。
私たち日本人はスポーツ好きです。スポーツ新聞が飛ぶように売れるのも、そのためでしょう。スポーツといえば何といってもオリンピックですね。それがどの種目であれ優勝した選手が表彰台に上がって嬉しそうな笑顔を見せる時、また、日の丸が高々とあがり、君が代が吹奏される時、興奮しない人はありますまい。ところで、以前ローマオリンピック大会の時、レスリングで金メダルを獲得した若いアメリカの選手の言った言葉を思い出します。「私は今までにニ回忘れる事の出来ない感激を味わった事があります。その第一は少年時代、主イエス・キリストを信じて救われバプテスマを受けた時のあの喜びであり、第二は言うまでもなく、数年前ローマでスポーツマンとしての最高の栄誉を得た時の喜びです。だが、みなさん、あの表彰台上での感激は日々薄らえていますが、あの第一の感激は何年も経った今でも日々新たです。」と
4.患難をも喜ぶ喜びです。
喜びの人、パウロの言葉に次のようなものがあります。<それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを知っているからである>(ローマ人への手紙5章1節)「そんなこと、あってたまるものか」と言われる方がきっとあると思います。そうです、常識で考えれば、そんなことは決して有り得よう筈がありません。だが、クリスチャンの喜びとは、いわゆる肉の喜びではないのです。それは享楽的、技巧的な喜びではなく、キリストと共にある、高められ、無限に尽きる事の無い喜びなのです。或るらいの療養所に近所に住む人々が出入りするようになったそうです。何のためにか。もちろん、彼らは病人ではありませんが、療養所の中に病気でありながら毎日喜んで生活している人たちが大勢あると聞いて、その人達に直接会って話を聞くためにやって来たのです。健康な彼らに患者さんの一人がにこにこしながら回らぬ舌でこう申しました。「信じなさいよ、主イエスさまを。信じさえすれば、本当に幸福になれるんですから。」<患難をも喜ぶ>とはこの人達の姿を最も適切に描いた表現だと思われませんか。
5.希望に根差す喜びです
喜びの人であったパウロは、その喜びをクリスチャンの大いなる希望と結びつけて考えています。彼はこう申しています。<わたしたちは、さらに彼により、今立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして彼の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。>(ローマ人への手紙5章2節)昔、アレキサンダー大王は出陣にあたって、「余はただ前途に希望を持つのみだが、この希望こそ、余の財産なのだ。」と言ったとか。クリスチャンの希望は、果てしなく広がる、天国にまで至る希望です。やがてこの世の終わりに、主と顔と顔をを会わせて相まみえる、その輝かしい希望を胸に抱くクリスチャンは、真に喜びの人です。
以上のような本当の喜びをあなたのものにしたいと願われるなら、今すぐ、自己中心の生活を悔い改め、主イエス・キリストをあなたの心にお迎えして下さい。また、聖書を通じて、神があなたに語りかけられる御言葉を学び、祈りと感謝をもって、キリストの愛の中に留まり続けなさい。「主にあって喜ぶ」とはこの経験を言ったものなのです。 |
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