第ニ章 求道篇 ● 1. どのように求めればよいか
■質問
 聖書に出てくる主イエスの有名なお言葉に「叩けよ、さらば開かれん」というのがございますね。実際、多くの人が本当に救われたいと願いつつ、自分なりに求めていると思うのです。けれど、「求めても得られない」という声をよく聞きます。これは一体どういう訳なのでしょう。
■答え
 これは多くの方が知りたいと願っていることだと思います。「求めても、得られない」ということは、その求め方自体に問題があるのでしょうね。これは、本当に残念なことだと思います。あなたが親しい友人を電話で呼び出す時に、相手の電話番号を確認して、正しくかける必要があるでしょう。急いでいるからといって、むやみやたらにダイヤルを廻しても目的を達することは出来ません。これは一つの例にすぎませんが、これは信仰の世界においても同じだと思います。もし、あなたが本当の救いを得たいと思われるならば、聖書が私たちにしてくれる仕方で正しくそれを求める必要があるわけです。万一、求めても得られないならば、その求め方のどこかがいけないのです。

 では間違った求め方とは一体どのようなものでしょうか。

 第一に考えられるのは、ただ、頭の中だけで求めているという場合です。求めても得られないという人達の多くは、いわゆるインテリの人達です。彼らは物に対して客観的、批判的な洞察をすることの出来る人達です。しかし、ある場合に、そうした態度を信仰の領域まで持ちこんで、救いを求めるにも、単に観念的な求め方に終始してしまうことになるのです。

 私たち日本人にとって、ウイリアム・クラークの名は忘れることの出来ないものですが、同じ頃、九州の熊本藩の洋学校に南北戦争歴戦の勇士で、信仰深い砲兵大尉 L.L.ジェーンズが教鞭をとっていました。ある日の夕方、彼は尾崎という学生の訪問を受けました。この青年は長く道を求めていましたが、理性が許さないというので信仰に入りませんでした。そこでこの信仰あつい教師と青年の間に次のような会話が交わされたのです。

「尾崎君、まだ信仰の決心がつきませんか。」
「はい、まだ研究中です。」
「しかし、尾崎君、馬や犬はどんなに賢くても、人の心を察することは出来ないでしょう。これと同様に全知全能、それに愛なる神のみ心をいくら研究したところで、どうして完全に知る事ができますか。」

 その世青年は家に帰り、始めて真の祈りをささげ、信仰に進んだのです。

 このように、人が研究信者にとどまるならば、決して生々とした神との交わりを、真の救いを経験することは出来ません。

 第二に、「求めても得られない」と申される方々は、多くの場合、神と偶像に二股をかけていないか、ということです。ある日、主イエスの許に救いを求めてやって来た金持ちの青年はその富に対する執着をすてがたく、ついに顔をくもらせて主イエスのみまえから姿を消しました。人により、場合によっては、偶像はいろいろと形をかえて、神に従わんとする私たちの前に立ちはだかるのです。

 聖歌521番はわたしが最も愛唱する信仰の歌の一つです。そこにこうあります。

「キリストにはかえられません。世の宝もまた富みも、このお方が私に代わって死んだゆえです。世の楽しみよ去れ、世のほまれよ行け、キリストにはかえられません。世の何ものも。」

 もし愛するあなたが神を求めつつ、なお、世の何ものかに心を奪われておられるならば、私はあなたにおすすめしたい。
<あなたの仕えるものを、きょう選びなさい。>(ヨシュア記24章15節)

 第三に、求めても得られない理由は真剣さに欠けた求め方であるということです。つまり、中途半端な求め方が多いのです。
先ほど質問者の用いられた主イエスのみ言葉とその前後をもう一度読んでみましょう。
マタイによる福音書7章7〜8節<求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見出すであろう。門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜すものは見いだし、門を叩く者は開けてもらえるからである。>
よく注意してこの箇所を読んでまいりますと、その求める熱心の度合いがいよいよ深められて行く事に気がつかれると思います。

 実際、主イエスに求めてきた者は、生きるか死ぬかの瀬戸際にある人たちでした。これはあなたが福音書をお読みになればよくお分かりになることです。主イエスは、彼に求めて来る者には、いつでも絶対的な態度を要求し給うのです。

 ここに昭和三十三年頃、この世を去った一死刑囚が獄中で救いを求め、ついにそれを得た喜びの日の日記の一節がございます。

 「ああ、私は救われたのである。私の罪のすべてが赦されたのだ。まだ喜びの涙は止まらない。あまりの喜びと感謝で筆も進まない。渇ききったわが魂は主イエス・キリストから流れてつきぬ生命の泉をむさぼるように飲み、ここにわが魂は過去の一切の罪、汚れを洗われ、清められた者として新生した。ああ、この喜びは本当に渇きを覚えた人にのみにしか話してもわかるものではあるまい。かつてなき喜びが湧き平和が宿り、そして絶望が希望と変わり、其の救いの喜びを体験した。」

 あなたが、全身全霊をもって求められるならば、必ず救いの泉はあなたのものとなるのです。