第ニ章 求道篇 ● 2. 疑い深いということ
■質問
 私は、すでに何回も教会に行き、牧師さんの話も聞きました。又、聖書も自分なりに読んでいます。確かに全体として、キリスト教はさすがに世界の宗教、又、私自身の生涯の信仰としても、これ以外にないと思います。
 しかし、どうも私の性分として、よいと分かっていても、すぐに鵜のみに出来ないのです。「ただ信ずるのですよ」と言われても、すぐに「はい」と言えない、もどかしさすら感じます。所詮、私は疑い深く、救われ難い人間なのでしょうか。ひとつ、わたしのようなもののために、お話頂けませんか。
■答え
 はい、これは決してあなただけの問題でなく、同様の経験をされている人は、他にも多くいらっしゃる筈です。疑い深い性質の人というと、もうそれだけで信仰の世界には不適格というように考えるのはよくありません。疑うということは、消極的には不審に思うとか、怪しむとかいうことでしょう。これをもっと積極的に考えるならば、問題意識をもつということになりませんか。

 わたしの長男は、小学生の頃から大変理科が好きで、いつも昆虫を見、天体を見ては、いろいろ疑問をもつようです。どうも私の子供時代のことを考えると、今の子供たちは科学的な水準でも数段上のような気がします。これはよくないことでしょうか。とんでもない。これでこそ、日本の将来は明るいのです。

 ある家庭のお母さんは、お子さんがせっかく買ったおもちゃをすぐにこわしてしまうとこぼしておられました。これはたしかに経済的には困ったことでしょう。しかし考えようによっては、いつまでも大事におもちゃをしまっておく子供よりも、どうしてもおもちゃの仕組みを調べたくて、すぐにばらばらにしてしまう子供の方が、科学する心があると言えないでしょうか。

 だいたい、信仰する人は頭が単純なんだと一般的に思われがちですが、わたしは決してそう思いません。相対性原理を発表したアインシュタイン博士の伝記を読むときに、彼がいかに高い宗教の次元に生きていたかを学ぶのです。彼は決してかさかさな唯物論者ではありませんでした。この偉大な物理学者にかつて直接にお会いになった西南学院大学の古賀武夫教授がこう言っておられました。

 「その頃、私はまだ若い学生でして、この偉大な科学者の信仰心ということに深い興味を覚えていました。そこで私は、彼に聞いたのです。『博士、あなたは聖書の中に出て来る奇跡を信じられますか。』すると博士の答えはこうでした。『勿論です。ところで、あなたは聖書を科学の教科書として読んでおられませんか。それは違う。聖書は私たちの霊的なガイド・ブックなのですよ。』その時の博士の言葉を今でも忘れる事がありません」と。

 私はあなたが問題意識を持たれるということと、神、キリストへの信仰をもたれることとの間に矛盾は無いと確信します。ただ、その問題意識が神をしめだすような方向に向かうのでなく、謙遜に神を知りたいという祈りを内に秘めているならば、必ずや益となって働くのです。

 ここで、新約聖書のヨハネによる福音書29章24節以下のところを読んでみましょう。時はちょうど十字架にかかられた主イエスが死人のうちから甦られた直後のことです。
<十二弟子のひとりでデドモと呼ばれているトマスはイエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。他の弟子たちが彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った。「わたしはその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、またわたしの手をそのわきにさし入れてみなければ決して信じない。」
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスが入ってこられ、中にたって「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスはイエスにこたえて言った。「わが主よ、わが神よ。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たので信じたのか、見ないで信ずる者は、さいわいである。」>

 疑い深いトマスを捨てられなかった主イエスが、疑い深いと自称するあなたをどうして捨てられることがありましょうか。それどころか、主はわざわざ八日の後、この懐疑者トマスを回心に導くために、弟子たちのもとに来られたではありませんか。しかし信仰は頭で分かったから、見たから信ずるのではありません。主イエスは彼に言われました。<見ないで信ずる者はさいわいである>と。