第ニ章 求道篇 ● 3. 果して、神は必要ないか
■質問
 初めてお便り致します。私は今、ある短期大学の学生です。それはキリスト教の大学なのです。私は入学した当時、キリスト教主義に反発しておりました。なぜかといえば、私には神の存在が信じられないからです。クリスチャンは、人生を考える時、ものを考える時に、必ずといってよいほど神を出して来ます。人生を考える場合、どうしても神をひき出さなければ考えられないのでしょうか。それが疑問です。今の私には少なくとも、神は必要ありません。でも、夜になると、聖書を読み、心を落ちつかせようとしています。クリスチャンは全て神に頼ろうとする、甘い考えをもっているような気がします。私には信仰とは自分の気休めにしか過ぎません。神を求める人間は、本当に弱いものなのでしょうか。これから、キリスト教を少しずつ勉強して、もっと、わからない点を質問しようと思います。よろしくお願い致します。
■答え
 私も、大学時代、ミッション・スクールに学び、そこで育てられた者として、現在、ある意味で同じ境遇にある、あなたの心のうちを案外よく理解出来るつもりです。あなたは、お便りの中で、「今の私には少なくとも、神は必要ありません」と書いておられました。あなたには今のところ、クリスチャンは「全て、神に頼ろうとする甘い考えをもっている人々」、信仰は「自分の気休めのため」としか映っていないようですね。もし、私たち、先に救われたクリスチャンが、その怠慢さのゆえに、あなたにそうした誤ったキリスト教の印象を与えているとすれば、本当に申し訳ございません。

 ところで、あなたが今、必要なしと言っておられる神は、学校の授業の中で、ただ思索の対象として出てくる、あなたと直接にかかわりを持つことのない神ではないでしょうか。それはただ、あなたの知性とかかわりをもつだけの神であって、あなたの心とは無関係な存在でしょう。だから、あなたは別なところで、「私にとって神の存在が信じられない」と書かなければならなかったのです。それは、実に正直な告白だと思います。もし、あなたが正しく、聖書が教えているような仕方で、神の存在を信じることが出来た時、あなたは、かりそめにも「私に神は必要ない」と言うことは出来ませんし、又、一切のもやもやとした疑問もいっペんに吹きとんでしまうに違いありません。

 長男の聡(あきら)が小学生の頃、雑誌の付録についてきた空気を圧縮するプラスチック製のポンプを使い、妹と水を飛ばして遊んでいたことがありました。私は彼にこう尋ねました。「あきら、そのポンプの中に空気があることが、どうして分かる?」彼は目をぱちくりさせながら得意気に答えました。「だって、空気は見えなくても、この棒をギューと押すと、先の穴からシュ−と音をたてて空気が出てくるんだもの。」 「なるほど!」合づちをうってから、私は第二の質問をしました。「ではね。窓が閉めきってあるのに、お父ちゃまが部屋の中にいるのが、どうして分かる?」幼ない息子は顔を輝かしながら答えたものです。「そりゃ、すぐに分かるさ。外から、僕たちが『お父ちゃま!』と呼べば、『なんだ』とお父ちゃまの声がするから。」

 多くの人は、神を汎神論者が考えるように、又、実験室でみられる一種のエーテルかガスのように考えていますから、自分の納得のいくように合理的な証明が出来なければ、その存在は確められないと結論ずけてしまいます。しかし、クリスチャンに、神の存在について質問するならば、きっと、聡のような答えが返ってくることでしょう。「私が祈ると必らずお答え下さるので、神がいないなどとは考えることも出来ません」 と。
 
さき程のお手紙の他の個所から、あなたが神を探し求める努力をお始めになっていることを知ることが出来ました。これこそ、神の見えざる導きの御手が、あなたと共にあることの一つの証拠に他なりません。旧約聖書の詩篇53章1節に、ダビデのこのようなことばがあります。<愚かな者は心うちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。> 「神を必要としない」ということは、「私は空気中の酸素を必要としない」というのに似ています。あなたの魂に神は不可欠です。主イエス・キリストにあって、あなたが生ける神に出会われることを祈ります。