第ニ章 求道篇 ● 4. 真の神を知る方法
■質問
 私の学校は、ミッション・スクールなので、宗教という時間があります。こないだの授業で、「神の存在」 ということについて話し合いました。私達(生徒)は、「神の存在は信じる。でも、その神とは、一人一人ちがい、みんなの心にいる神を信じている」と言いました。それに対して、先生は、「それは真実の神と自分たちの神を別々にしているから信仰ではない」と言われました。先生の意見をおきかせ下さい。
■答え
 お手紙の内容を伺っていると、熱のこもった教室でのディスカッションの模様が想像されて、私もそこに居合せたような気がします。一般の学校では、中々、こうした問題について、先生と生徒が卒直な意見を交換することはあり得ないことでしょうから、これは正にミッション・スクールに学ぶ皆さんの特権ですね。

 まず、「私は神の存在を信じる。でも、その神とは一人一人ちがい、みんなの心にいる神を信じる」という生徒諸君の意見を取り上げてみましょう。ここで「みんなの心にいる神」とは具体的に何を意味するか分かりませんが、私は、こんな風に想像してみました。つまり、第一の可能性として、良心とか、仏教でいう仏性(宗教性)、又は理性のようなものを考えていたのではありませんか。第二の可能性として、西洋の宗教画等に擬人的に描かれた神の姿等に対する反発として、自分たちには自分たちの神についてのイメージがあるんだと主張していたのではありませんか。

 第一の、良心とか、宗教性、道徳性といったものは、人間の特性であっても、神と同一視すべきではありません。それらは神から私たちに対する賜物であって、自分自身の内なる神のように考えるならば、一種の偶像崇拝ということになります。

 第二に、神のイメージを心に描く場合、私たち人間は、どうしても人格的な神を擬人化する傾向があります。或る人は、偉大な裁判官として神を考えますし、他の人は、優しい羊飼いとしての神を心に描くでしょう。しかし、私たちは、聖書全体を通じて、一方に傾らない、愛なる神を心に描かなければなりません。信仰をもって、聖書を深く読めば、読む程、私たちの神についてのイメージは正しさを加えていくと思います。ところで、新約聖書のヨハネによる福音書1章18節には、こう記されています。 <神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。> ここで、ひとり子なる神とは、言う迄もなく、主イエス・キリストのことですね。又、別なところで、キリストは<わたしを見た者は、父を見たのである>と言っておられます。私たちは、主イエス・キリストを通じてのみ、最も正しく、父なる神を心の眼を以って見ることが出来るのです。私たちが札幌に住んでいた時、私の書斎の西側の窓から、四季移り変わる藻岩山の山肌が美しく望まれました。東側の窓からは、家々の赤や青のトタン屋根が見えるだけでした。私は藻岩山を眺めるときには、どうしても西側の窓のところに行かなければなりませんでした。これは譬としては、いかにも不完全ですが、真の神を正しくみるためには、キリストという窓を通して見る以外にないのです。書斉の東側の窓から見えるものは、人家の屋根であっても、藻岩山ではないように、キリスト以外の窓から見えるものは、神のように思えても、実は天の父ではないのです。それらを真の神と思いこむことは、家の屋根を藻岩山と思い込むようなことです。

 私たち人間は、所詮、有限なものである以上、無限の神を理解出来ません。只、神の備え給うた唯一の道、キリストを通じてのみ、真の神に至ることか出来るのです。