■質問
僕は聖書を読んでいて、「心の貧しい人たちは、さいわいである」という言葉にぶつかりました。これは、一体、どういう意味なのですか。僕の考えでは、心の貧しい人より、実際は、心の豊かな人こそ、さいわいだと思うのですが。 |
■答え
この有名な聖句は、マタイによる福音書5章の主イエスの山上の垂訓の中に出てくるものです。只今、その聖句を御質問の中で引用して下さいましたが、もう一度、その前後を含めて読ませていただきます。
<イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」>(5章1〜3節)
きて、早速ですが、御質問の中心にふれてまいりましょう。それは、なぜ、こころの貧しい人たちは、さいわいか、ということでしたね。常識的に考えるなら、誰でも、はじめは、「待てよ、一体、そんなことがあるだろうか」と不思議に思うのが当然でしょう。ここで、主イエスは、<貧しい人>という表現を、主観的に、その人が自分の貧しさを自覚しているかどうかという意味で用いておられます。主イエスの語られた、別の譬話を味わわれることによって、もっとはっきりとお分かりいただけると思います。まあ、ちょっとお聞き下さい。
<自分は義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った。『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あをたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。>(ルカによる福音書18章9〜14節)
つまり、心の貧しい者とは、消極的で、いつも愚痴ばかりこぼしている人を指すのでなく、ここで、主イエスが申されている自分を低くする者の意味です。只今の譬に登場してくる取税人は、そのような人物でしたね。ですから、<心の貧しい人たちは、さいわいである>というところを、ごく平凡に言い直すならば、「謙遜なたましいの所有者はさいわいである」ということになるでしょう。果して、何が幸福かということになりますと、人それぞれちがった意見をもっていると思います。或る人にとって幸福とは、本能の命ずるままに食い、飲み、話すといった生活です。主イエスがその尊いみ教えの中で言っておられる、「さいわい」とは、そのような一時的で地上的な幸福ではありません。それは肉体的、感覚的な幸福でなく、精神的、霊的な幸福です。
ところで、あなたは、いずれの幸福を求めておられますか。 結局は、健康を害し、精神的にくされ果てて、白濁してしまうような一時的な幸福ですか。それとも、永遠に続く満足でしょうか。あなたが、本当に天国のめぐみを心にみたしたいとお思いでしたら、ほら、温くおいしいお茶をついでもらうために、古い冷たくなったお茶を捨てる場合のことを、お考えいただくとよいのです。つまり、あなたの心のうちを空にして、その心を主イエスの前に差し出すことです。
|
|
|