■質問
ラジオでジ・アンサーを聞き、新約聖書を送っていただき、一ヶ月以上たちました。正直言って、まだ、聖書について、十分理解出来ない現状です。私は中学の三年頃からキリスト教に対して興味を持っていました。そして、完全な信者になれたらと、何度考えたことか…。しかし、教会へ行く勇気がありませんでした。
でも、聖書を手にして、私の考えが、いかに小さく、もろいものとつくづく感じました。友だちがよく言います。「神を信じてどうするの」とか「神なんかいない」と。私もその意見に動揺しましたし、本当に信じていいのかしらと考えさせられることもあります。こんな私でも、神を信じきることが出来るでしょうか、心配です。是非、御意見をお聞かせ下さい。 |
■答え
只今のお手紙のはじめの方に「私は中学の三年頃からキリスト教に対して興味を持っていた」とあるところから、あなたの求道が、つい最近はじまったものでないことがよく分かりました。「教会へ行く勇気がなかった」と言っておられましたが、現在はどうなのですか。ともあれ、神さまは聖書のみことばによって、いつも、あなたをとらえていらしたようですね。実際、神の愛のみ手の中にあること程、しあわせなことはありません。たとえ、私たちは弱くとも、母鳥の翼のかげに身を寄せる雛のように、私たちは神のみつばさのもとに憩うことが出来ます。私は、しばらく前に北海道に住む、はしぶと鳥を描いたフィルムをテレビで見ていて、親鳥が、いかに命がけで巣の中の雛鳥を守るかを知りました。腕白な子供たちをはじめ、ありとあらゆる外敵が、彼らを襲います。だが、その都度、親鳥は文字通り、自分の命を賭して子鳥を助け守るのです。「カラス、なぜ鳴くの…」というあの聞きなれた童話の調べがバックに流れる、その偉大な大自然のドラマをみていて、胸のあつくなるのを覚えました。
「神を信じてどうするの」「神なんていないのよ」と、神のふところの中にいるあなたに無造作に投げつけられる冷い言葉。あなたは、幾度か、そうした意見に動揺したと言っておられましたね。懐疑の念すら抱かれたようです。しかし、その都度、あなたは、そうした不信の嵐から助け出されていらしたではありませんか。これは、さまざまなサタンの誘い、攻撃から懸命に、あなたを守り続けられるイエス・キリストのみたまが御一緒であればこそ、可能なことなのです。もし、あなたがひとりで、サタンに立ち向おうとしておられるなら、すでに、みじめな敗北を経験されていたに違いありません。
信じたい! 人が何といっても、ついて行きたい! そう思い立たれたとき、そうした積極的な意志をあなたに与えられた神はほむべきかな! 御一緒に、新約聖書のピリピ人への手紙1章5節〜6節を読んでみましょう。使徒パウロのことばです。
<あなたがたが最初の日から今日に至るまで「福音にあずかっていることを感謝している。そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。> ここで、<あなたがたのうちに良いわざを始められたかた>とは、神ご自身を指しています。
あなたは、御質問の最後に「こんな私でも神を信じきることが出来るでしょうか」と言っておられましたね。私はお答えしたい。もし、あなたが、おひとりで、それをしようとするならば、残念ながら失敗されるでしょう。しかし、あなたに神を思い、永遠を思う心を与えたもうた、他ならぬ愛なる神御自身に、あらゆる問題を委ねて進まれるならば、あなたは信じきることが出来ます。クリスチャン信仰は、「何かを自分でする」のでなく、凡てを全能の神の御手に委ねることから出発します。そして、神に委ねれば委ねる程、私たちの信仰は、より高い完成へと近づくのです。
神の御ひとり子、イエス・キリストは、わたしたちが本来ならば、受けねばならない罪の刑罰、あの地獄を、わたしたちに代わって、十字架の上で受けて下さいました。そればかりではありません。わたしたちは信仰の導き手であり、完成者である彼を仰ぎ見ることにより、終りの日に、あなたの言われる「完全なる信者」に造り上げていただくことが出来るのです。御一緒に、主イエスを仰ぎつつ、信仰の道を進みましょう。
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