第ニ章 求道篇 ● 7. 聖書はいかに読むべきか
■質問
 聖書を読む場合に、他の本を読む場合と自ら違う感じをもつのは、ごく自然なことだと思います。ところで、神のことばである聖書を読むにあたって、是非、これだけはという基本的な読者としての態度を、いくつかあげていただけると幸いですが。
■答え
 はい。これは私自身の問題として、いつも、心にかけていることでもあります。これから申し上げる二、三のことを心に留められることによって、聖書の真理は、いよいよあなたに深いかかわりをもつこととなりましょう。

1. 期待をもつこと  毎日、何回か聖書を前に坐る時、それが書斎であれ、旅行中の列車の中であれ、私は神のみことばに対する期待をもたずにおられません。

 あなたが、もし学生さんであれば、いろいろな場合に、心がわくわくするような期待をおもちになった経験がおありでしょう。たとえば、先生が試験の成績を発表する、あの瞬間の興奮もそのひとつです。三十過ぎて留学生になった私は、外国にあって、いかに家族や友人からの便りを待ち焦がれたことでしょう。どうせ、来ていないと知りつつも、日に幾度も人目をはばかりながら、町の郵便局に通ったことがあります。

 果して、私たちが、神のみことばである聖書に接する時、それを神からの愛の手紙として心を開いて受け取っているでしょうか。旧約聖書の詩篇119章147〜148節に、みことばを慕う、詩人の心情が実に美しく、こう記されています。<わたしは朝早く起き出て呼ばわります。わたしはみ言葉によって望みをいだくのです。わが目は夜警の交代する時に先だってさめ、あなたの約束を深く思います。>

2. 信頼の態度  先日、クリスチャンになられた娘さんが、その信仰告白の中で、「私は、まず信ずることから始めたい」と申されたのが、とても印象的に私の心に焼きついています。或る日、主イエスが、生れつきの盲人に「シロアムの池に行って洗いなきい」と言われたとき、彼は「そんなことをしたって、私の眼がよくなる筈はありませんよ」とは言いませんでした。彼は、ただ単純に主のみことばを信じたのです。聖書によると、<そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った> (ヨハネによる福音書9章7節)とあります。彼は肉の眼ばかりでなく、心の眼をも開いていただいたのです。

 中世の宗教改革者マルチン・ルーテルの運動が、聖書を読むことに出発していることを、あなたもよく御存知のことと思います。彼の生涯のクライマックスは、何といっても、ヴォルムスの国会での出来事ではないでしょうか。1521年4月17日、前日に引続き、彼の著書の取消を求められた彼は、居並ぶ皇帝、諸侯を前にして毅然たる態度でこう答えたのです。「聖書と明白な理由とによって確信させられるのでなければ、ローマ法皇と会議の権威を受容することはできない。何となれば、それらは互いに矛盾しているからである。そして、私の良心は神のことばに捕えられている。私は何も取消すことは出来ない。私は此処に立つ。私は他にどうすることもできない。神よ、助け給え。アーメン」。

3. 実行に移すこと  私たちは、互いにみことばの実践に努めなければなりません。この点、私たちが一般の小説や文学書等を読む場合と非常に違います。聖書の読みっぱなしは、或る程度の益はあっても、あなたを真に幸福と祝福に導くことはありません。新約聖書のヤコブの手紙1章22節にこうあります。<御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはならない。>

 岡山孤児園の創立者、石井十次先生の用いた聖書には赤青の鉛筆の傍線にまじって、いくつかの御言葉の横に血で傍線が引かれ、そこに「明治何年何月何日より決行」とか「断行」の文字が読まれるそうです。聖書を読むことにより、聖書に生かされていく、それが、真のクリスチャンの生涯ではないでしょうか。

 あなたも又、そうした態度をもって、日々、聖書に親しまれるようにおすすめいたします。