第ニ章 求道篇 ● 8. 誰がクリスチャンと呼ばるべきか
■質問
 私たちは、あまり深く考えることなく、相手をクリスチャンと呼んだり、自分をクリスチャンと呼ばれるのを当然のことのように思ったりしていますね。そこで、今日は「クリスチャン」という呼名を中心に、一体、誰がクリスチャンと呼ばるべきかについてお話しいただけませんか。
■答え
 はい。ただ習慣的な呼名としてでなく、少し深く掘り下げて考えていくと、クリスチャンであるということは、決してなまやさしいことでないことが分ります。数年前、米国にまいりました時に、私は大勢のアメリカ人に伝道用のパンフレットを配りました。そのパンフレットの一つに ”Are you a Christian?" つまり「あなたはクリスチャンですか」というのがありました。ご承知のように、アメリカはキリスト教国と呼ばれていますが、このパンフレットを手渡す時に、いろんな反応があって考えさせられました。或る人はニコニコ笑いながら、「はい、私もクリスチャンです」と言われました。又、或る人の如きは、「えー、そうありたいと願っています」と申されました。実際、今日ではそんなことはありませんが、「わたしは、クリスチャンです」という告白は、昔、ローマ帝国の法廷にあっては、命と引きかえの言葉でした。それは、直ちに殉教の死を意味していました。しかし、当時のクリスチャンは主のために苦しむこと、生命を捨てることを最大の喜び、最大の光栄としました。

 数年前に、伝道旅行で長崎にまいりました。そして、あの市内の西坂の丘に、深い感慨をもって二十六聖人殉教の跡を訪ねました。慶長元年、秀吉の命によってキリシタン二十四人が捕えられ、死刑に処せられることになりました。彼らは皆、左の耳を切り落され、京都の町を引き廻されました。その間にも、彼らのうちの或る者は信仰をあかし、三人の少年は天使のような顔をして主の祈りをとなえたといいます。一行が牢に帰ったとき、権力者の地位にある一人の人がやって釆て、少年ルドビコに「信仰を捨てたら助けてあげるがどうか」と尋ねました。そのとき、ルドビコ・茨木は次のように答えました。「あなたさまがキリシタンにお成りなされ。魂の救いの道は、ほかにございません。」寒い冬の日、ぼろを着せられて引いていかれながらも、信仰を説いてやまない彼らを見て心動かされ、自分もキリシタンであると名乗り出た者が二人ありました。その二人を加えて、一行は二十六人となったのです。一行は、二月五日朝九時ごろ、京都から八百キロの道を歩き柊え、長崎の西坂につくや、立派に殉教の死を遂げ、信仰を全うしました。

 クリスチャンという呼び名はギリシャ語のクリスチアノスで、これは本来、教会外の人のつけた綽名(あだな)です。それは、キリストのもの、又は、イエス・キリストの弟子の意味です。新約聖書には三回出てまいりますが、一番古い記録は、使徒行伝の11章26節のものでしょう。そこにこうあります、<このアンテオケで、初めて弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。>
 このアンテオケという所は当時のシリヤの首都で、第一世紀の前半にはローマとアレキサンドリアに次ぐ大都会として、政治的、経済的、文化的に東方世界の中心でした。しかし、特に此処は、初代キリスト教会の外国伝道の拠点でもあったのです。

 クリスチャンとは第一に、キリストの救いにあずかり、罪の奴隷の状態から解放され、新しい生まれ変わりを与えられた人です。ある人は、教会の原簿に名を連ねていれば、後は何をしてもクリスチャンであると誤解しています。献金さえしていれば、本当のクリスチャンであるというのでもありません。以前、来日したことのある米国の有名な実業家ビル・ジョンズ氏は、今日驚くべき働きを神の国のためになさっています。しかし、彼は回心する前にも、毎週八百ドルの献金をしていたのです。彼自身の表現をかりれば、彼は天国は金で買えると思っていたのです。実に、イエス・キリストによる新らしい生まれ変わりこそ、あなたをキリストのものたらしめる唯一の条件です。

 第二に、クリスチャンとは、キリストの御霊によって、その生活のために新らしい原動力を与えられた人です。いくら、新生の恵みに与かっても、唯、それだけであるならば、早晩、以前の生活に逆戻りしてしまいます。私たちは、それ程弱いのです。そうであればこそ、私たちはキリストの御霊と信仰に満ちて生活する必要があるのです。

 第三に、クリスナャンとは、キリストによって、新らしい人生の目的を与えられた人です。人は誰でも生がいある人生を求めていますね。この充実した人生は、はっきりとした目的を与えられた人生でなければなりません。

 マルチン・ルーテルは、クリスチャンは小さいキリストであると申しました。それは、キリストの目的を自らの目的とし生きることに他なりません。

 私の心からなる祈りは、あなたも真に生々とした、名実共なるクリスチャンとして生きはじめられることです。アーメン。