第ニ章 求道篇 ● 9. 教会の明るさ
■質問
 最近、教会にまいりまして、私が想像していたとは違う、あたたかい親しみを感ずることが出来ました。何か、礼拝に釆ておられる人々が、みんな明るく、希望に輝いているようでした。いいえ、それはお世辞でも何でもありません。実際、卒直にそう感じたのです。あヽした教会の明るさはどこから来ているのですか。又、教会の交わりとは、どのようなものなのですか。
■答え
 あなたが進んで、教会にいらして下さったことを嬉しく思います。又、大変よい印象を受けられたことを、特に喜んでいます。教会とは何か、堅苦しいところと頭からきめてかかっておられる方々が、あなたのように実際に教会にいらして下さることを希望します。私が、いくら「教会とはこんなにすばらしいところなんですよ」 とお話ししても、それが御銘々の体験となる迄、その真の意味を理解していただくことは出来ません。この放送をおききのすべての方々におすすめいたします。どうか、思いきって、教会に足をお向けになって下さい。
 
 さき程、「教会の明るさ」ということが話に出ましたが、この明るさは何によっているのでしょうか。最近、教会で結婚式を挙げる傾向が若い人達の中に強まっていることは否めない事実です。私は、よく、結婚式に来られた教会外の方々から、「教会の結婚式はいいですね− 実に明るい、こんなすばらしい結婚式に出たのは、はじめてです。」などと御挨拶を受けることがあります。勿論、一度や二度、教会に来たからといって、本当のものが分かる筈がないという理屈も成り立つでしょうが、私は、新来者の第一印象を軽視することが出来ないのです。では、一体、「教会は明るい」という理由として何が挙げられるでしょうか。そうです。神社仏閣等とはちがった建物そのものから来る明るさもあるかも知れません。又、結婚式のプログラムも、信仰と希望に溢れた魅力あるものでしょう。晴れやかで、溌剌とした音楽も、「明るい」という印象づけに、一役かっているに違いありません。

 しかし、ここで、私が特に強調したいことは、教会の明るさは、ただ、華やかな結婚式の時だけではないということです。たとえ、しめやかな、教会での告別式にあなたが参列されても、本質的な教会の明るさは決して失なわれていないのです。否、むしろ、そうした時にこそ、世には見られぬ、明るい希望がみなぎるのを覚えることが出来ます。

 教会の明るさ、それは所謂、外面的な理由によるものではなく、もっと、本質的なキリストを頭と仰ぐ教会の交わりの性格によるものなのです。ここで、旧約聖書の詩篇133篇を読んでみましょう。<見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。またへルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。>

 これは、いわゆる、聖地への巡礼の歌です。私はこの詩篇が大好さで、これを暗誦していると、昔、神の都エルサレムに向う巡礼者達の姿が、眼前に彷彿とするのを感じます。富める者も、貧しきものも、祭司も、農夫も、声高らかに賛美しつつ、嬉々として行進するその光景は、どれ程、詩人に深い印象を与えたか知れません。この霊的一致のもたらす祝福を歌った詩の内容は、そのまま、教会の交わりのすばらしさを歌ったものに他なりません。

 昔、バプテスト派の説教者であったジョン・フォセットは七年間、牧会したイングランドの小数会を後に、ロンドンの有名な教会の牧師としての招聘に応えて、正に出発しようとしていました。彼は告別説教をし、荷物を馬車にのせました。いよいよ御者がその鞭を馬の背にあてんとした時、フォセットは、村人達が車を囲み、涙を流して彼との別れを悲しんでいる様子を見ました。この愛に動かされた彼は荷物を解き、ロンドンの教会に、その牧師となることは出来ないと書き送りました。彼は残る生涯、その村の教会に留まり続けました。このことがあって、一週間以内に彼が書きあげた讃美歌にこう歌われています。

(1)かみによりて いつくしめる   心の交わり いともたのし
(2)父の前に せつに祈らん   望みも恐れも 共に同じ
(3)共にしのぶ うきなやみも   ゆたけき恵みに やがて消えなん
(4)罪とうれい  なきみくにの   つきせぬむつぴを よろこぴ待たん
  (讃美歌 403)

 これは、単なる人間的な交わりでなく、神が御子イエス・キリストの血で買いとられ、今なお生けるキリストが真中に立ち給う、霊的な交わりです。あなたが一日も早く、キリストを仰ぎこの教会の交わりに加わられることを期待します。