■質問
聖書といえばキリスト教、キリスト教といえば聖書を思い出すのは、決して私だけではないでしょう。たしかに、キリスト教における唯一の経典としての聖書はすばらしいの一語に尽きると思います。しかし、聖書が神のことばであるということになると、未だ十分に納得出来ません。この点についてお話し下さいませんか。 |
■答え
はい、これは特に、この放送にふさわしい御質問だと思います。毎年、日本聖書協会が全国で頒布する聖書の数だけでも、数百万冊にのぼることを思うとき、今更ながら、聖書の需要の大きさに目をみはらざるを得ません。
ところで、聖書が神のことばであることを物語る客観的ないくつかの証拠を取り上げてみることにいたしましょう。
第一に、聖書が見事な統一体であり、いささかも内部的矛盾がないということです。既に御存知でしょうが、この六十六巻からなる聖書は一人の人が書いたものではありません。何十人もの人々が、神の御霊に導かれて、当時の世界のあちらこちらで書き上げたものです。すなわち、それらは荒野で パレスチナで、バビロンで、ローマで、ローマ帝国内のここかしこで書かれました。たいていの書物は出版後、十年か二十年たつと忘れられてしまいますが、聖書だけはそうでないのです。事実、聖書の一番古い部分は、今から三千年以上も前に書かれました。又、最も新しい部分でも千八百数十年も前に書かれたのです。
数年前に、私はニューヨークの岸壁から、遥か彼方に有名な自由の女神の像を眺めることが出来ました。あの優美な像がどこで造られたか御存知ですか。そう、あれはヨーロッパは、花の都、パリで造られたのです。そこで、あの女神像の各部分がそれぞれ制作され、出来上ったこれらの部品がアメリカに運ばれ、まとめられたときに、あのすばらしい、美しい像が出来上ったのです。しかし、これらの部品が、共通の目的をもたずに各時代に生きた人々によって、それぞれ、違った場所で作られたと仮定してごらんなさい。そこには、あのようにすばらしい調和はあり得たでしょうか。とんでもない! 決して、そんなことがある筈はないのです。このように考えるときに、聖書があのように見事な調和を保っていることは奇蹟としか考えられません。そこにこそ、聖書が神の言である第一の有力な証拠が見られるのではないでしょうか。
第二に、聖書は、今日に至るまで、世界のベスト・セラーであるという事実です。そして、永遠に、ベスト・セラーであり続けるに違いありません。現在、全世界で二千数百の異なった国語、その他に訳された聖書は、文字通り、地球上の殆んどすべての人々によって読まれ得るのです。その深遠な知恵、韻文の美しさ、歴史と予言の正確さにおいて、聖書に匹敵することの出釆る書は他に一冊もありません。たしかに、聖書は、あらゆる思想、哲学等の批判を受けて来ました。それにも拘らず、現に一言一句も変更されないで、これに耐えぬいてきたのです。そして、皮肉なことに、寧ろ、批判、攻撃するものの立場が、年と共に変わって釆たのです。たとえば、一八六一年にフランスの料学アカデミーで、聖書と料学の矛盾する点五十一ヶ条を数え、聖書はやがて、科学の前に破り去られるであろうと予言されたにもかかわらず、今日では、その五十一ヶ条がすべて、科学の側から破られているのです。新約聖書マタイによる福音書二四・三五で、主イエスはこう申されています。<天地は滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は滅びることがない。>
第三に、聖書の人類社会に及ぼした、否、及ぼしつつある驚くべき影響を挙げることが出来るでしょう。札幌で、明治のはじめに、ウイリアム・クラーク先生によって播かれた御言の種が、いかに大きな影響をこの町にもたらしているかを痛感するのは、私一人でない筈です。
或るインドの王子がビクトリヤ女王に、英国の繁栄の秘訣は何かと尋ねた時、女王は答えるかわりに、彼に一冊の聖書を与えたと伝えられています。
もし、あなたがお望みなら、私はこの聖書を読んで救われ、全く造り変えられた人々を、数多くあなたに御紹介することが出来ます。聖書には、あなたを救う力があるのです。それは何故か、聖書が、それ自身が語っているように、すべて神の霊感を受けて書かれた、権威ある啓示の書であるからです。そして、その真の主題は、主イエス・キリストにおける神の救いの事実です。「いや、まだ聖書を読んだことがない」と申されますか。そうであるなら、すみやかに聖書を求められ、信仰をもって読みはじめられるようおすすめいたします。 |
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