第三章 教理篇 ● 2. 神は存在するか
■質問
 先生のお話は、常に「神は存在する」という前提の下になされていますね。勿論、神の存在を信じられる人達には、それでいいのですが、私を含めて、未だその信仰に至っていない者にとっては、何か飛躍的に受けとられるのです。本当に愛なる神が存在するとすれば、すばらしいことに違いありません。果して、クリスチャンはどのようにして、神の存在を知ることが出来るのですか。
■答え
 はい、これは人類が昔から今に至るまで問い続けてきた、古くして、又、新しい問題だと思います。たしかに、クリスチャンにとっては、これは既に解決ずみのことですが、信仰なさる以前の方々には、「この点さえ、確信できればいいのだが」といった実に切実な問題でしょう。しかし、ある人達は、ただ好奇心から「神は在るか」と尋ねます。エミ−ル・ブルンナー博士は、「もし、人々が、もの好きの詮索で、神の存在について尋ねるならば、わたしたちは固く沈黙することによって答えるほかはない」と言っておられます。その訳は、この世の事物が存在すると同じような意味で、神の存在を考えることは出来ないからです。すなわち、神は人が、自分自身の研究の対象として扱うことの出来る客体ではないのです。

 数年前、私は九州の或る大学の細菌学の研究室に、自ら無神論者と称する一人の若い婦人の学者を訪ねたことがあります。私たちは、いろいろと宗教とか、キリスト教について論じ合った後に「神は存在するか」という、この問題にぶつかりました。彼女は自然科学者として、一歩も自分の立場を譲ろうとしませんでした。私は、側にあった試験管を指差しながら、「あなたは、もし私が『この試験管の中に神がいます』というように、神の存在を証明すれば満足されるでしょう」と尋ねました。すると、彼女は「正にその通りだ」と言わんばかりに頷いたのです。あなたは、この場合、どのようにお考えになられますか。神は決して、このように他のものと並んで存在するものではありません。また他のものの下にあるものでもありません。
神は決して、あなたの知識の対象であり給わないのです。

 ここで、新約聖書の使徒行伝17章27節のところを注意深く読んでみましょう。
<こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから速く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。> ここで、ある方は全く予期しない言葉にぶつかられたのではないでしょうか。<われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。〉 神は、この宇宙のどこかに在し給うのではありません。あなたを含めて、この世界が神のうちにあるのです。この偉大な神は決して人の手で造った宮などにお住みになる必要がありません。あなたは聖書の一番はじめに出て来る有名な言葉を御存知ですか。そうです! <はじめに神は天と地とを創造された。>(創世記1章1節) ですね。聖書が説き、私たちが信ずる神は、この世界とその中にあるすべてのものの存在と生存の源であり給います。
 ある人は自分の理性が許さぬからといって、神の存在を否定します。その人は、自らの理性を絶村化しています。しかし、彼はむしろ、そうする前に、自らの理性が絶対であることを証明しなければならないのです。

 あなたは非人格的な力が、人格的なものを生み出すことが出来ると思われますか。もし出来ないと答えられるならば、人格的なあなたを生み出し、存在させているお方は、人格的な創造者であると言えないでしょうか。

 善悪を判断するあなたの良心も、もし神が存在しなければ、何の意味もない古臭い習慣に過ぎません。

 あなたの内なる心情ばかりでなく、秩序ある大自然も、ただ偶然に生み出されたものではありません。新緑の中を走り抜けて行く列車の窓から、ものも言わずに景色を見ていたお百姓さんが、ため息をもらして言いました。「木の葉を緑にして下さったなんて、神さまはなんと恵み深いお方なのかのう!」

 このように、歪められぬ理性、良心が、又、大自然の不思議が、神のいますことを示しています。しかし、それらは神がどのようなお方であるかを明確に語ってくれません。それについて、あなたに教えてくれる唯一のもの、それが神のことば、聖書です。そして、もっと厳密に申すなら、あなたに見えざる神をあらわすことの山来る唯一のお方は、ひとり子なる神、イエス・キリストに他なりません。この道筋によって、あなたも真剣に神を求められませんか。