■質問
教会にまいりますと、牧師さんの説教の中などで、よく「罪」とか「罪人」という言葉が出て来ます。何か、教会で罪人呼ばわりされるのは腑におちないのですが、この点についてお話し下さいませんか。 |
■答え
はい、これは教会にはじめて来られた方々が、よく誤解される問題です。その理由の一つとしてあげられるのは、聖書でいう罪と法律上の犯罪がよく混同されていることです。勿論、聖書に親しみ、信仰生活に進んでまいりますと、こうした誤解はひとりでに解けてまいります。
さて、ここで、聖書のいう罪とは、一体何であるかを考えてみましょう。罪とは一口で言うと、神の栄光をあらわすべき私たちが、神を忘れ、自分中心の生活を送ることです。主イエスの譬に次のようなものがあります。
<ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、「どうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そうしたら、あなたが用意した物はだれのものになるのか」。自分のために宝を積んで神に対して富まない者はこれと同じである。>(ルカによる福音書12章16節〜21節>
この譬は非常に単純ですが、驚く程適切に、私たち人間のおちいりやすい根本的な罪の現実を描き出しているのではないでしょうか。それは何一つ、神の恵みによらぬものはないのに、その神を忘れ、いつの間にやら、自らが神の座に居坐っているということです。あいにく、日本語の聖書では、はっきりしませんが、英語の聖書では、この短い金持のひとりごとの中に I(私)という人称代名詞が六回、My(私の)という所有代名詞が五回も出てくるのです。たしかに、自分自身の生活を振り返ってみる時に、神について思うより、いかに、「私が」「僕が」ということが多いことでしょう。
私は、青年時代、法務省のある役所に勤めていました。当時、私たちの庁舎に週に一度、近くの刑務所から収容者の人々が種々な作業をするために送られて来ました。そうした或る日のこと、休憩時間に、彼らが丸くなって寛いだ会話を交わしていたのです。あまり話がはずんでいるので、聞くとはなしに聞いていますと、そのうちの一人が、吐き出すように、こう言いました。「なーに、運が悪いんだよ。結局、おれたちは社会の犠牲みたいなもんだよ。」彼はいつの間にやら、自分を責めるのでなく、その罪を社会全体になすりつけてしまいました。すると、どうでしょう、そこに居合せた皆んなが我が意を得たりとばかり、「そうだ、そうだ、お前の言う通りだ!」と叫んだのです。彼らの会話を終始、側で聞いていた看守が、その時、はじめて口を開きました。「何を言うんだ。お前たち一人一人が悪かったので、その責任をとらされているんじゃないか」と。私はその時、こう悟りました。「今、彼らは刑法上の罪について、自らの罪が取るに足らぬように主張しているが、神のみ前に立つ時、ここにいる皆んなが例外なく、彼らを見守っている看守も、この私も共に罪人なんだ」と。
使徒パウロは、ローマ人への手紙3章23節でこう申しています。 <すなわち、すベての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。> たしかに、私たちは、人の物を奪ったり、人を故意に傷つけたりしていないかも知れません。しかし、障子のすきまから内に射し込む一条の光線が、多くのちりを映し出すように、聖なる神のみまえに立つ時、私たち銘々は、自らが神の無限の愛を知らずに、いかに、自分勝手な生活を送っていたかを示されるのです。それは、あの神への感謝を忘れた富める農夫の姿でもあります。しかし、只今の聖句の後半が教えているように、私たちは価なしに――すなわち全く無償で――神の一方的な恵みにより、イエス・キリストの十字架の救いを信ずることによって、罪の恐るべき結果<永遠の滅び、地獄>から救われます。そればかりではありません。永遠の生命にあずかり、希望と喜びに満ちた、天国の市民としての第一歩が始まるのです。それは、あなたの信仰によって、あなた自身の現実となるのです。 |
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