■答え
これはクリスチャン以外の方々が当然お持ちになる疑問のひとつだと思います。しかし、実際これくらいキリスト教信仰において、重大な問題はないのです。また、私にとっても、これは非常にお答えし甲斐のある御質問です。
私の書棚には、イエスについて書かれたいろいろな立場の本があります。ある著者の著した英雄論を開いて見ると、そこにも釈迦、孔子、ソクラテスとならんでイエスの名が見られます。しかし、この著者はあくまでイエスを愛の行者、また、全人類に影響を与えた英雄の一人として描いているのであって、そこにはイエスを神の子とする一片の言葉も見当たりません。
私の恩師の一人である仏教学者のA氏は、キリスト教に関して驚くべき知識を持たれ、自らキリスト教について学生達に講義されました。彼はある著書の中でイエスのことにふれています。しかしそれはあくまで責任のない、第三者的な説明でしかありません。
ここで新約聖書に戻りましょう。マタイによる福音書16章13節以下に次のような記事があります。
<イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれた時、弟子達に尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか。」彼らは言った。「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、他の人達は、エリヤだと言い、またエレミヤあるいや預言者のひとりだ、と言っている者もあります。」> イエスの、いわば遠まわしな御質問に対して、弟子達はここまですらすらと答えることが出来ました。それは容易なことです。「人々はこう言っている」と言うだけなのですから。そこには個人的な責任がありません。
ところが、主イエスはそれで満足されませんでした。ヨハネ、エリヤ、エレミヤの三人は、いずれも救い主の出現前に再び来ることを予言された人々です。それは、いわば人間イエスに対し、この世の人々が為し得る最高の評価でした。しかし、イエスはそれ以上のお方であり給います。先ほどの聖書の続きを読んでみましょう。マタイによる福音書16章15節からです。<そこでイエスは彼らに言われた。「それでは、あなたがたはわたしを誰と言うか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたこそ、生ける神の子、キリストです。」すると、イエスは彼にむかって言われた。「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」> この主イエスの喜びのご様子を想像してみてください。イエスはなぜそのように喜ばれたのか。言うまでもありません。「あなたこそ、生ける神の子、キリストです。」というペテロ自身の信仰告白のためです。
イエスが生ける神の子であり給うということは、決して信者の独断ではありません。聖書によるならば、主イエスがかく呼ばれ、信ぜられることを求めておられるのです。主イエス・キリストは完全な人間であり給いました。しかし、同時に人間として神、神が人として生まれ給うたお方なのです。この点について、アンドリュー・マーレイ博士は、「キリストは人間性に具体化された神の謙遜です。」といっておられます。イエス・キリスト、この方こそ、神が自らその力を制限して現れ給うたお方に他なりません。
十八世紀の偉大な教会指導者ツインツエンドルフ伯が、デュッセンドルフの画廊で見た十字架上のキリストの絵によって回心に導かれたのは有名な話です。ところでこの絵は三百年程前に一画家によって描かれました。この画家は最初、キリストの顔をスケッチした後、その泊まっている宿屋の小さな娘を呼んで、この絵をどう思うかと聞きました。少女はそれを見て、「この人、良い人でしょう。」と言いました。画家は自分の絵が失敗したことを知って、最初のスケッチを破り捨て、祈りの後に更に練習を重ねて、第二のスケッチを完成しました。そして、また少女を呼んで、今度の顔の絵をどう思うかと尋ねました。少女は大変苦しんでいる人の顔だと思うと答えました。画家は今度も失敗したことを知って、またもやスケッチを破り捨てました。瞑想と祈りの後、第三番目のスケッチが完成しました。それが出来あがった時に、三度少女にどう思うかと聞きました。肖像画を眺めた少女は跪いて、「この方は主イエス様だわ!」と叫んだのです。そうです。善人でも賢い教師でもなく、また多くの人が考えるような単なる受難の人でもなく、インマヌエル、すなわち、神われらと共にいますという方こそ、私たちにとって大きな意味があるのです。あなたはイエスを誰と告白されますか。 |