第三章 教理篇 ● 6. 十字架上の叫び
■質問
 キリスト様が十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫び出されたそうですが、これは一体どういうことなのですか。神のひとり子であるイエス様にはふさわしくないお言葉のように受け取れますが。本当の意味を教えて下さい。
■答え
 いままで多くの御質問にお答えしてまいりましたが、このようにイエスの十字架に直接かかわりのある御質問は少なかったように思います。実際、解答者の側でもこれほど答え甲斐のある質問はない訳で、喜んでいます。

 ところでただいまの主イエスのお言葉は、新約聖書マタイによる福音書27章46節のところに出てくるもので、有名な主イエスの十字架上で話された七つのお言葉の一つです。では、話を進める前に、45節のところから読んでみましょう。 <さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって三時に及んだ。そして3時頃に、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。>

 先ほどの御質問の中にも、「神の子であるイエス様にはふさわしくないお言葉のように受け取れる」とございましたが、ただ聖書のここだけを取って考えられるならば、それはごく自然な感じ方だと思います。実は、十数年前、東京の仏教大学の学生であった時、たまたまある授業の際に、有名な禅学者であるK教授が、この主イエスのみ言葉を引用し、「これはイエスのメシヤ意識が、苦痛の絶頂にあって薄らいだものであろう」といった意味のことを話されました。勿論これは一人の仏教学者の意見に過ぎませんが、その解釈はクリスチャンであるわたしには如何にも浅薄なものとしか受け取れず、勇を鼓して、所信を述べさせていただいたことがありました。

 この問題の一節を理解するために、2つの聖書の箇所を引用したいと思います。第一に旧約聖書の詩篇22篇の一節をごらん下さい。そこにこうあります。 <わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。> はじめてこの聖句を聞かれた方はたぶん非常に驚かれたことと思います。それもそのはず、この一節の前半の言葉は、先ほどの主イエスの十字架の叫びと全く符合するからです。この詩篇は一般に十字架の詩篇と言われ、それが起こるよりも数百年も前に記されたものです。あたかも、作者が自ら十字架の前に立っているように、その描写は生き生きとしています。死せんとするイエスの言葉、敵どものあざけり、その手と脚は刺し貫かれ、衣が分けられる。こうした叙述は主イエスの十字架以外の如何なる歴史上の事件にもあてはめることはできません。もし、主イエスがこの詩篇の内容を覚えつつ絶叫されたとするならば、それはメシヤ意識の低下どころか、逆に旧約聖書の預言の通り、十字架に死なんとする主のメシヤ意識のこの上ない実証ということになります。

 第二は使徒パウロの言葉で、新約聖書のコリント人への手紙5章21節に出てくるものです。そこに次のようにあります。<神はわたしたちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、わたしたちが彼にあって、神の義となるためなのである。>  罪の汚点一つだにない神の小羊なるイエスがどうして、瞬間的にせよ、あの悲劇的な叫びをおあげになる必要があったのでしょうか。それは、当然、自らの罪の結果、私たちが経験しなければならぬ霊的な死、すなわち、父なる神との断絶を私たちに代わって、ご経験になったからに他なりません。主イエス・キリストは、私の、そしてあなたの罪の呪を一身に負われて、十字架の上に死に給うたのです。

 アメリカの西部のある州で、ふたりの少女が吹雪にあって視界を失い、道に迷いました。両親は昼夜、捜して、次の日の午後四時ごろ、凍死体となった二人を発見しました。十一歳になる姉娘は、まず自分の外套を脱いで、小さい妹をくるみ、上着を脱いで妹に着せました。そして両腕に妹を抱いて暖めようとしました。自分のことなどは全く考えないで。それはなんと美しいことでしょう。はじめは顔をそむけたくなるかも知れませんが、やがてその美しさは私たちをひきつけます。実際、十字架上のイエス・キリストほど、私たちの目をそむけさせるものはありません。しかし、それは外側のことで、その深い意味において、これほど私たちをひきつけるものはありません。<わが神、わが神、どうして、わたしをお見捨てになるのですか> この主の叫びのうちに、わたしは、他でもない、あなたの、そしてわたしの為に死に物狂いでその罪をおおい、赦さんとする神の愛を見る思いがいたします。神の御霊があなたに、この福音の奥義を親しくお示し下さるように祈ります。アーメン。