■質問
聖書を読んでいますと、現在の私にはまだ十分に理解出来ない箇所があちらこちらに出てまいります。たとえば「聖霊」という言葉なども、そのひとつです。聖霊を受けるとは一体どのようなことなのですか。 |
■答え
「分かったようでわからない」これが、聖霊について読んだり聞いたりする時に多くの方々が抱かれるお気持ちだと思います。実際、はじめての方にお話する場合、これくらい説明しにくい教理はないと思います。しかし、一方、信仰の進んだクリスチャンにとって聖霊ほど、身近で親しみ深いものはないのです。
わたしは青年時代から仏教に興味を持ち、禅学者として世界的に有名なA博士から、いろいろと仏教の手ほどきを受けた事があります。博士はキリスト教にも造詣が深く、その研究が1冊の本になっているほどです。ある日の事、私はうず高く積まれた本の山を背にした先生と、彼の書斎で四方山の話をしていました。偶々、話題は、わたしがクリスチャンであることもあって、キリスト教の信仰のことになりました。私は、仏教学者である博士が、いかによく聖書を読んでいるかも知らされ、敬服せざるを得ませんでした。ところが話が進むうちに、彼の口から思いがけぬ質問が飛び出したのです。「ところで、渡辺君、聖霊とは一体何かね。未だに僕はそれがよく分からんのだよ。」この一言は私たちが聖霊について、観念的に知る事では足りず、聖霊御自身を経験的に知らなければならぬことを示しています。仏教者であるA先生が、そのように尋ねられたことはむしろ当然で、「聖霊を知った」と言われたなら、その時から彼は仏教徒ではなく、クリスチャンであると言わざるを得ないでしょう。一言で言えば、聖霊はこの世のいかなる霊でもなく、教会の交わりにおいて知られる、人格的な神の霊であり、キリストの霊であります。
私たちはキリストを抜きにしては神を知る事が出来ぬように、聖霊を抜きにしてはキリストを知る事が出来ません。新約聖書のコリント人への第一の手紙12章3節に次のように記されています。 <そこであながたに言っておくが、神の霊によって語るものは、だれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言う事が出来ない。> このように、神が御霊によってあなたの生活に入りたもう時、そこには常に奇跡的なあることが起こるのです。そのことにより、あなたの生活は以前のそれと違った、輝かしい出発を経験することが出来ます。真実な意味でクリスチャンには誰にもこの聖霊による新しい生まれかわり(霊的新生)の経験があるのです。
もしあなたが誰かキリストを信じている友人から他のいかなる人にも見られぬような清潔さと愛をお感じになるなら、―私は申し上げたい―「それは単に彼の修養とか教養から出てくるものではなくて、聖霊の内なる働きのあらわれである」と。実に聖霊の最大の実は「愛」であります。
ではどうすれば今、聖霊を与えられることが出来ますか。その道は唯一つです。すなわち、イエスの言われたように、真の悔い改めと信仰を持って祈り求める以外にないのです。
<このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら求めてくる者に聖霊を下さらないことがあろうか。>(ルカによる福音書11章13節)
賀川豊彦先生は、こう言っておられます。「我らは内に働き給う神を深く味わわなくてはならぬ。工場に、学校に、道行く時に、神内に住み給うという嬉しい経験を味わうのでなくてはならぬ。」
あなたにキリストの救いを現実ならしめるもの、それは今、現に働き、救いをもたらしたもう御霊なる神、すなわち、聖霊であります。あなたもこの御霊を祈り求められませんか。 |
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